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鬼の語源は「遠仁」と言われます。

 

前回のブログで、我利我利亡者について書きました。

お釈迦様は、私たちの欲の本性は我利我利亡者であると教えられています。

我利我利というのは、自分の利益、自分の利益と書いてあるように、

切羽詰まると、自分の事しか考えられなくなるということです。

 

余裕のある時には、相手の事を考えたり、思いやったりできますが、

切羽詰まると、相手の事はどうなってもいい、まずは、自分が、、

という心が強く出てきます。

 

その我利我利の心を仏教では、鬼の心と言われます。

 

鬼というと、金棒を持って、虎の皮のふんどしをはいている

角の生えた怪物というイメージがあると思います。

 

そして、そんな者は、実際には存在してはいないと思います。

しかし、仏教では、その鬼というのは、鬼ヶ島という場所に存在

している生物では亡くて、自分の心の中に潜んでいるものであると

教えられています。

 

元々、鬼というのは、「遠仁」と書いて「おに」と読んだのを

漢字が変化して、現在の「鬼」になったと言われています。

 

では、遠仁とは、どんな心かというと

仁というのは、別の言葉でいうと「慈悲」ということです。

 

慈悲というのは、仏教の言葉ですが、

慈の心と、悲の心、2つの心ということです。

 

慈とは、抜苦(ばっく)といわれて、苦しみを抜くということです。

苦しんでいる人をみると放っておけない、何とか助けてやりたいと

いう心、これが慈の心です。

 

悲とは、与楽(よらく)ということで、楽しみを与えてやりたいという

心です。

人に喜びや幸せを与えてやりたいという心、これが慈悲の悲の心です。

 

人間にもこの慈悲の心はあります。

たとえば、親の慈悲といった場合は、親の子供に対する慈悲の心の

ことです。

 

親は子供が苦しんでいるのを見ると、放っておけない、なんとか

助けてやりたいと思います。

 

私が子供の頃、祖父母の家に泊まりに行った時に、いとこと風呂場で

はしゃいで、風呂のお湯が耳に入ってしまいました。

すぐに取ればなんということはなかったのですが、耳の中で、水が、

ゴロゴロいいながら動くのが面白くて、ずっとやっていて、そのまま

寝てしまいました。

 

そうしたところ、夜中に耳がものすごく痛くなり、高熱が出てしまいました。

母親を起こして、その事を訴えと、深夜にもかかわらず、病院に車で

連れて行ってくれました。

中耳炎だったのですが、その時の事は今でも忘れられません。

 

間違いなく、眠たい中だったと思いますが、子供が苦しんでいるのを見る

放っておけない、親の慈悲の現れだったと思います。

 

また、休みの日に、動物園や遊園地に子供を連れて行ってやりたいと

思うのも、親の悲の心です。

 

休みの日は、ゆっくり眠っていたいと思うものですが、子供が喜ぶ顔が

みたいと遊びに連れて行ってくれたのは、楽しみを与えてやりたいと言う、

悲の心であると思います。

 

苦しみを抜いて、楽しみを与えてやりたいという、抜苦与楽の心を

「慈悲」といい、その心を「仁」といいます。

 

そう言えば、「仁」というテレビ番組もありましたね。

タイムスリップした慈悲深い医者の話でした。

慈悲の心を「仁」といいますが、反対に慈悲の心がない、無慈悲な人を

仁に遠い、「遠仁」といい、それが、鬼となりました。

 

切羽詰まると人の事を考えられない、自分の事しか考えられなくなる

心が、仁に遠い、遠仁、鬼の心です。

 

全ての人の本性を見てみると、その鬼の心があり、普段は、それをかくして

いますが、切羽詰まるとその心が表に出てきてしまうのでしょう。

 

全ての人が、同じ心を持っているのであり、そう思えば、人の姿を見て、

自分の心を見つめて、反省するきっかけにもなるかもしれません。

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