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我利我利亡者とは・・

Meditations / Pixabay

 

前回、怒りの心は、みんなの為と思っていても、実は自分の為に腹を立てて

いる事が多いという事を書きました。

 

まず、そこに気がつく事が大事で、自分の為ではない、みんなの為だと

思い込んでいると、相手の意見を聞いたり、相手の事情を察知しようという

気持ちがなくなって、自分が正義と思っている事を振りかざしてしまいます。

 

お釈迦様は、私たちの欲の本性は、自分の事しか考えていない

「我利我利亡者(がりがりもうじゃ)」

であると教えられています。

 

我利我利とは、我とは自分のことです。利は利益の利ですが、

仏教では、利益を「りやく」と読んで幸せということです。

 

我利とは、自分の幸せということで、それが二つ重なって我利我利ですから

自分の幸せ、自分の得ばかりを考えている事をいいます。

 

常に自分の事ばかりを考えて、自分が幸せになるように、自分が得をするように

とさまよっている亡者であると、私たちの欲の本性を我利我利亡者とお釈迦様は

教えられています。

 

本性というのは、普段は人に見せないように隠しているものです。

たまに「あの人は、本性丸出しだ」と批判される人がありますが、

批判している人も、それが自分の本性とうすうす気づいているから、

本性が出てしまっているよと言わずにおれないのでしょう。

 

普段は、隠している本性でも、余裕がなくなった時、切羽詰まった時、

追い詰められた時には、その本性が顔をのぞかせます。

 

よく映画などで、やくざに囲まれた時に、恋人を捨てて逃げる男性を

「本性が出たな」という場面がありますが、追い詰められると、

人の事より、まず自分、自分の事しか考えられない我利我利の心が

出てきます。

 

食事の時に、テーブルに最後の1コが残っているという場面があります。

唐揚げが、1コだけ残って誰も手をつけない時に、私の地元では

「遠慮のかたまり」

と呼びます。

 

「私はいいから、あなた食べなさいよ」

「私もお腹いっぱい。あなたどう?」

「私ももう充分。あなた一番わかいんだから」

というように、遠慮して一つだけ残っているという状態です。

 

食欲が充分満たされている、それほど不自由していない時は、

そのように、相手に譲っている人でも、

自分の食欲が切羽詰まっている時はどうでしょう。

給料日前に、お金がなくて、何日もろくに食べていないという時に、

その1コを見たら、自分が食べる事しか考えられなくなります。

 

食欲が切羽詰まると、相手の事を考えている余裕はなくなります。

まず自分が食べる事しか頭になくなります。

 

道を歩いている時に、財布が落ちているのを見つけました。

開けてみてみるとなんと10万円入っている。

そんな時、どうしますか。

「当然、警察に届けますよ!」

そうでしょう。

それを黙って自分のポケットに入れてしまうという事は皆さんはしないと

思います。

 

しかし、切羽詰まっていたらどうでしょう。

アパートの家賃が3ヶ月滞納していて、今日払わないと出て行かないと

いけない、このお金があったら、なんとか2ヶ月分払える、そんな時は…

「それでも、盗ったりしません!警察に届けます!!」

という声が聞こえてきそうですが、確かに、それでも警察に届ける

でしょう。

しかし、心の声を聞いてみたらどうでしょうか。

(これがあったら、家賃が払える。でも、ばれてつかまったらひどい目にあう。

それなら1割もらった方がいいかも、それにもし落とし主が出てこなかったら

自分の物になるし、やっぱり届けておいた方が得策だな…)

と、実は考えているのは自分のことで、自分が切羽詰まっている時に、

「落とした人は、よほど困っているだろうから早く届けてあげよう」

と相手の事を考えることはできないのではないでしょうか。

 

切羽詰まった時に、普段は見えていない、そんな我利我利の心が見えてきます。

そして、それは、全ての人の欲の本性であるとお釈迦様は教えられています。

 

ということは、もし皆さんの周りで、あの人は自分の欲の事ばかり考えている

という人があったなら、その人が特別に欲が深いという訳ではなくて、

よほど切羽詰まった状態に追い込まれているのかもしれません。

そう思ったら、相手を責めて、嫌な思いになるのではなく

そこまで切羽詰まっていない自分の恵まれた環境に感謝する方がいいのでは

ないでしょうか。

 

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