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心にもないお世辞が相手を傷つけるのは。

TanteLoe / Pixabay

 

お釈迦さまが説かれる私たちの私のすがたについて続けて書いています。

お釈迦さまは、大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)に

心常念悪(しんじょうねんあく)

口常言悪(くじょうごんあく)

身常行悪(しんじょうぎょうあく)

曽無一善(ぞうむいちぜん)

心は常に悪を念い

口は常に悪を言い

身体は常に悪を行なって

かつて一善もなし

と説かれています。

 

心は常に悪を思うとは、

貪欲、瞋恚、愚痴の心で、人に言えないような恐ろしいことを思っていると

お釈迦さまが教えられています。

 

そして、その心が口に現れると、

綺語(きご)

両舌(りょうぜつ)

悪口(あっこう)

妄語(もうご)

となります。

これは口で造る悪ということです。

 

綺語とは、心にもないお世辞やおべんちゃらを言うことです。

会社で、女友達が、パーマをあてて出社したのを見て、

心では、全然似合っていないと思っているのに、

口では、「かわいー。すっごい似合ってるね。どこの美容院?」

と心にもないお世辞を言います。

 

近所の人がベビーカーを押しながら歩いているのを見て、

子供の顔を覗き込んだ時に、なんてブサイクな子供と心で思っても、

「まあ、可愛い赤ちゃんねー」

と言います。

 

お釈迦さまは

心口各異(しんくかくい)

言念無実(ごんねんむじつ)

心と口は各々異なり、

言っていることと思っていることにまことは無い

と説かれ、

私たちは、心で思っていることと、口で言っていることが異なる

だから思っていることも、言っていることもまことがない

ウソ偽りばかりだと教えられています。

 

しかし、考えてみると、お世辞を言うことは、生活には必要なことで、

悪ではないのではないか。

いや、むしろ、思ったことをそのまま言うと相手が傷つくと思って

お世辞を言うのだから、相手のことを思っての言葉で、

悪ではなくて、善なのではないか。

と思われる方もあるでしょう。

 

どうして、この綺語が、心で造る悪の一つとして教えられているのでしょう。

それは、お世辞を言われた人が、本当は全く違うことを思っていると

知ったら、直接言われたよりも、ずっと深く傷ついてしまいます。

 

女性は、トイレに入ると、洗面台で、世間話をします。

これは男性には、よくわからない習慣ですが、そこで

「ねえ、ねえ、○○さんのパーマみた?」

「見た見た、全然似合ってないよね。いいと思っているのかしら。

どこの美容院でしたんだろう」(←先ほどお世辞を言った人の言葉)

なんて会話が展開されたりします。

 

しかし、そのパーマをあてた本人が、個室に入っていて、その会話を

聞いたらどんな思いをするでしょう。

「それなら直接言ってくれたらよかったのに。

陰でそんなことをいうなんでひどい!!」

と深く傷つくのではないでしょうか。

 

お世辞を言うのは、相手のためと思っていますが、そうでははなく、

実は考えているのは、自分のことなのではないでしょうか。

 

相手によく見られたい、いい人だと思ってもらいたいと自分のことを

思う心がお世辞を言わせているのです。

 

その証拠に、本人にの前では、お世辞を言うのに、

別の人とは、そのことを話のネタにして、一緒に笑ったりしています。

 

「まあ、可愛い赤ちゃんね」

と言った奥さんが、その晩、ご主人が帰ってくるのを待ちかねて

「ねえ、ねえ、あなた。あそこの家の赤ちゃんなんだけどね。

なんか猿みたいな顔しててびっくりしちゃった。

お父さんもお母さんも、結構いい顔立ちなのに、どうして子供は

あんな顔なんだろう。ねえ、あなたどう思う」

などと顔中口にして話を始めてしまったりします。

 

本当に、相手のことを思ってお世辞を言ったのだとしたら、

ずっとそれで貫き通すべきでしょう。

 

会社の同僚が、

「あの人のパーマ似合ってないよね」と話をふってきても

「そうかなあ。私はいいと思うけどな」

と答えるべきでしょう。

 

相手のためと言いながら実は自分のことを考えて、

言葉を飾り、いい人のように思ってしまう大元の心を見つめる

ことが大事ですね。

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