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釣り竿を片手に考えていることは

お釈迦様が説かれた真実の自己について続けて書いています。

前回は、殺生について、一言で殺生といっても、3通りあることを書きました。

 

自殺だけに限定すれば、そんなに生き物の命を奪っていないという人であっても、

他殺、随喜同業を含めて考えると、どれだけの殺生をしているかわかりません。

 

肉や魚を食べるのも、その命を奪っているということですし、

もしベジタリアンで、肉や魚を食べないという人でも、

野菜を作るときに、農薬を使ったり、手作業で害虫を駆除するなどして、

生き物の命を奪って、育てた野菜を食べているということは、

間接的に殺生をしているということになってしまいます。

 

また、たとえ食べ物で命を奪っていなくても、いろいろな場面で、

私たちの生活は、動物の命の上に成り立っていると言えるのではないでしょう。

病気になった時には、薬を使う人が多いでしょうが、

特に西洋医学における薬は、一般に出回るまでには、動物による多くの

実験が行われています。

 

日本で使われている化粧品も同じで、動物実験の上に成り立っている商品と

言えるでしょう。

ヨーロッパを中心に化粧品などの動物実験反対の運動が起きて、数年前に

EUで禁止されましたが、それまでは、ずっと行われて来たということであり、

日本やアメリカでは、まだそうなってはいません。

 

また、薬を飲まず、化粧品を使わなかったとしても、自分が生活する場所は、

多くの場合、動物がそこにいたのを追い出して、確保したという場所が

多いでしょう。

 

また、乗っている車に踏まれる虫や、その排ガスなどで、どれだけ動物の生態系に

影響を与えているかわかりません。

 

そんなことを言ったら、何もできない、生きていけないではないかという声が

聞こえて来ます。

 

そうです。私たちが生きていけないのです。

だから、私たちにとって殺生は仕方がないことには違いありません。

法律や道徳でも罪に問われないのは、それを認めないと生活が成り立たないからでしょう。

 

もちろん、娯楽のために、生き物の命を奪うことは、許されることではありませんし、

それに対する処罰も定められているのも当然のことと言えるでしょう。

 

たまに、多くの猫を殺して逮捕される人があり、それに対する多くの人の非難が

集中するのも生き物命を尊重する気持ちの表れでしょう。

 

そのような罪は厳しく裁かれるべきものですが、気になるのは、そのような

ニュースがインターネットに上がった時に、このようなコメントが多数書き込まれる

ことです。

 

「なんてひどい。。

動物の命は、人間の命と同じなのだから、そんな人は死刑にすべき」

 

私もひどいことだと思いますし、その罪を考えたら、自分も死刑にあっても文句が

言えないことだとは思います。

 

もし、この人が、動物に命を全く奪っていない人なのであれば、このコメントは、

理解できます。

 

また、「猫の命は、人間の命と同じなのだから」と書いてあるのであれば、

これも、理解することができます。

 

しかし「動物の命は」と書いてしまったら、この文章は、「私も死刑にすべき」

と書いているのと同じ文章になってしまわないでしょうか。

 

この文章には、生きるためではなくて、快楽のために動物の命を奪うのは、

死刑に値するという意味であって、食事のためというのは含んでいないという

意見もあると思いますが、これを書いている人が、そのような認識で書いているか

を考えると、おそらくそこまで深くは考えていないのではないでしょうか。

 

犯人に対して、なんてひどい人、私は、そんなことしない、こんなひどい人は、

生きている値がない、という気持ちから書き込んでいるコメントではないかと

思うのです。

 

もちろんひどいことだと思いますし、犯人を擁護するのではありませんが、

自分の罪に気がつかずに、人の罪を厳しく追及しているのは、真理から見れば、

滑稽なことであり、動物の目から見れば、偽善者であり、もっとひどい、恐ろしい

存在と映るかもしれません。

 

多くの生き物の命を奪いながら、少しの命を助けたことで、いや助けるまでいかず

かわいそうと思っただけで、自分は善人と思って、人を見下しているのは、

漁師という職業で、魚の命を奪い続けながら、亀の命を助けたことで、

動物愛護者のように受け止められている浦島太郎の姿に重なります。

 

殺生そのものも悪と教えられているのですが、自分の殺生に気がつかずに、

自分は動物の命を大事にしている良い人と信じて疑わず、、人を見下している姿にこそ、

もっと恐ろしい悪が潜んでいるのではないでしょうか。

 

仏教の法鏡に照らされる真実の姿をよくよく見つめていくことが大切であると知らされます。

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