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見・聞・知の仏様から見られた善とは

 

 

前回まで真実の本当の私の姿について書いていました。

お釈迦様は、大無量寿経というお経の中で、

本当の人間の姿を

心常念悪(しんじょうねんあく)

口常言悪(くじょうごんあく)

身常行悪(しんじょうぎょうあく)

曽無一善(ぞうむいちぜん)

と説かれています。

お釈迦様は、私たちの姿を心と口と体の3方面から教えられ

心と口と体で作る悪を十に分けて、十悪と教えられています。

さらに、最後に

曽無一善(ぞうむいちぜん)

かつて一善もなしと説かれています。

これは、未だ曽(かつ)て一つの善もしたことがないということです。

これまで、心と口と体の悪について書いてきて、そんなことはない、悪いこともしているが、良いこともしているはず

と思われた人も多いと思います。

まして、一つの善もしたことが無いと言われると、

「そんなことはない。小さいかもしれないが、良いこともやっている」

と思います。

一生懸命働いているし、親の面倒も見ているし、この前は、バスでお年寄りに席を譲った。

それなりに良いこともしていると思うかもしれません。

これは、それらの行いが悪であるということではありません。

ここでお釈迦様が「善」と言われているのは、真実の善ということです。

真実の善というのは、仏様から見られた善ということです。

仏様とは、「見·聞·知」の方と言われる。

見·聞·知とは、

見ているぞ

聞いているぞ

知っているぞ

ということです。

どんなに、隠れてやっていることでも、見ているぞ、

人に聞かれないように陰で言っていることも聞いているぞ

誰にも分からないだろうと思って、心の中で密かに思っていることも知っているぞ

ということです。

このように全てを見通す仏様から見られても、悪の混じっていない善というのが真実の善ということです。

そのような真実の善は、一つもやったことが無いのが、私たちであるとお釈迦様が説かれたのが

曽無一善(ぞうむいちぜん)

ということです。

たとえば、どんなことが真実の善と言えるのかというと、

お釈迦様が、説かれた善の一つに「布施」という行いがあります。

これは、人に何かをあげるということですが、

お釈迦様は、3つのことを忘れなさいと

三輪空(さんりんくう)ということを教えられています。

これは、3つのものを空じる、忘れるということです。

その3つとは、

施者(せしゃ)

受者(じゅしゃ)

施物(せもつ)

です。

施者(せしゃ)とは、布施をする人ということで、

「私が」ということです。

受者(じゅしゃ)とは、布施を受ける人ということで、

「誰々に」ということになります。

施物(せもつ)は、布施をしたものということで

「何々を」

ということで、三輪空とは、私たちが布施をした時の

「私が、誰々に、何々をしてやった」

という心を無くしなさいということです。

この心が全く無い布施は真実の善ということになりますが、

この心を忘れるのは、とても難しいことです。

ちょっとしたものなら、あまり感じませんが、

自分にとっても大切なものをあげた時や、

自分も大変な中を工面して渡したという時には、

この心の強さを知らされます。

この心をなくすことができたら、真実の善ができるということなのですが、布施一つをとって見ても、その難しさを知らされるのですが、

本当にお釈迦様が言われる通りなのか、これから詳しく見てゆきたいと思います。

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