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そんな当たり前のことをなぜ聞くのか

前回、私たちのやる善を仏教では雑毒の善と言われると書きました。

これは、お礼や見返りを期待する心を毒と言われているということです。

雑毒の善は、善であって悪ではないのですが、純粋な真実の善とは言えないということです。

私たちは、人のために何かをしてあげようという心もありますし、与えることの喜びも知っています。

しかし、相手に何かをしてあげた時には、どうしてもしてやったという恩着せ心、お礼や見返りを期待する心から離れることができません。

本当に相手の幸せを思ってやった善であれば、お礼や見返りがなくても、何も思いませんが、相手のためと思ってやったことでも、やはりお礼がないとしっくりこないのではないでしょうか。

昔、ある高僧が冬の寒い日に橋を通りかかったときのことです。

橋の下を見ると、一人の乞食が裸同然の姿で、ブルブルと震えています。

哀れに思った高僧は、自分が来ている衣を一枚脱いで、橋の下に投げました。

乞食はその衣を拾って何も言わずに身にまとって、そのまましゃがんでいます。

その様子を見た高僧はその場所から離れることができなくなりました。

そして、乞食に声をかけました。

「おーい。少しは暖かくなったかな」

乞食は僧侶をジロリと見上げると

「何も着ていないものが、着たら暖かくなるのは当たり前だろう。そんな当たり前のことをなぜ聞くのか。

与えられる身分を喜べよ。俺は与えたくても与えるものがないのだ」

その乞食の言葉を聞いた高僧は、お礼を期待する心を見透かされて恥じ入ったといいます。

その僧侶が、純粋に乞食のことを思って衣を投げたのであれば、乞食が寒さを少しはしのげたのをみて、喜べるでしょう。

しかし、その場所から動けなくなってしまったのは、何かが足りない、しっくりとしないと感じたからでしょう。

ではその足りないものは何かと言えば、それがお礼や見返りということです。

私たちが、料理を作りすぎて、余っているので、隣の家にあげた時、翌日に会ったのに何も言われなかったらどうでしょう。

「昨日のシチュー、ちょっとルーを入れすぎたみたいで、味が濃くなかったですか?」

「ああ、ごめんなさい。昨日のシチューとっても美味しくいただきました。有難うございました」

なんて会話が繰り広げられてしまいます。

ルーは適量なのに、どうしてそのようなことを言うのでしょう。それは何かが足りないと感じたからです。

前述の僧侶は、乞食から「有難うございました」とお礼を聞ければ、気持ちよくその場を離れることができたのでしょう。

出会ってすぐに、シチュー美味しかったですよと言われたら、「いえいえ、お粗末様でした」と気持ちよく話をすることができるでしょう。

そして、お礼を期待する心があることにも気が付かなかったでしょう。

ところが、このある意味、非常識な乞食や隣人のためにその心に気がつかされたということです。

相手に何かをしてあげて、その代わりにお礼の言葉が返ってきたら納得できるけれども、お礼の言葉がなければしっくりこないというのは、

ちょうど、商売で、品物を渡してお金を受け取ったらOKで、お金をもらえなかったら納得できないというようなものでしょう。

ドライな言い方をすれば、お金の代わりにお礼を受け取るビジネスということもできるかもしれません。

もちろん、受け取った方がお礼をいうのは当然ですし、それをしないのは非常識ですし、お礼を期待するのがそんなに悪いことなのかという意見もありますが、ここで問題にしているのは、真実の善かどうかということです。

そう考えると、真実の善を行うことがいかに難しいことなのか、少しは知らされるのではないでしょうか。

次回に続きます。

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