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駅前の募金に立ち止まったり、素通りしたり、その心は

雑毒の善について続けて書いています。

私たちのする善は、お礼や見返りを期待する毒の心が混じっているから、仏様の目から見られた、雑毒の善と言われるのだと書きました。

しかし、本当に全てがそうなのでしょうか。

人によっては、また場合によっては、毒が混じらない純粋な善もできるのではないかと思います。

たとえば、駅を降りた時に、募金箱を抱えた小学生くらいの子供が

「募金お願いしまーす」

と呼びかけているのを見て、その募金箱に500円を入れるのは、何のお礼も見返りも期待していないように思います。

「良いことをしたなー」

と何の見返りもないけれども、気持ちよくその場を離れることができますよね。

でも、もしそこに立っていたのが、子供ではなくて、中年のおじさんであれば、同じように募金をしたでしょうか。

仮定の話だから、実際にその場にならないとなんとも言えないと思いますが、ちょっと想像力を働かせて見てください。

おじさんなら通り過ぎてしまうという人も、あるのではないでしょうか。

その違いはどこから出て来るのでしょう。

子供が募金をしている内容を見て、これは、必要なものだから募金をしよう、おじさんがしているのは、そんなに重要ではないからしないでおこうと、内容を見て決めるのでは、おそらくないでしょう。

子供が立っているそばを素通りできないのは、そうした場合、後に罪悪感やしてあげたほうがよかったかなというわだかまりが残ると感じるからではないでしょうか。

そして、募金をしない場合は、そのようなわだかまりが残らなさそうと感じるからではないかと思います。

そんなこと考えていないという人もあるかと思いますが、心をじっくりと見つめていくと上記のような心に気がつくという人も少なくないのではと思います。

実は自分がそのあと、どんな感情になるかを瞬間的に察知して、寄付をするかどうかを決めているとも言えます。

そうなると人のためとは言いながら、実は自分がいい事したという満足を得るためにしている行為ということもできるのではないでしょうか。

わずかなお金で(場合によっては大きなお金で)自分のことしか考えていないという罪悪感を逃れて、よいことをした、自分は優しい人間だという満足感を買っているとも言えないでしょうか。

それは仏様の目から見られたら、純粋な善とは言えないということです。

もちろん、だから寄付をしなくても良いということではなく、どんな気持ちであってでも、された寄付は困っている人の助けになるから良い行いであることには違いありません。

ですから、因果の道理に従って、それに応じた良い結果が返って来るのは、当然です。

(ただ、寄付の場合は、それが本当に困った人に届くのかがわからないと本当に良い行為とは言い切れない側面があることには触れておきたいと思います)

仏教では真実の善とは、どのような善と教えられているかをよく知って、少しでもそうなるように心がけていくことが大事です。

そうすればするほど、周りの人も喜ぶし、自分も幸せな気持ちになれます。

そして同時にお釈迦様が明らかにされた自分の心の姿も知らされるということです。

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